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1-12 法案説明会1


選挙議院と企業院からの法案説明会1


 翌朝は、AIとの口論で始まった。
「どうしてみゆきに会いに行っちゃいけないんだ?会いに行ってからで
も説明会の開始には十分間に合うだろ?」
 身支度と朝食を終えたのが午前7時。説明会開始が9時で、その30分前
にまで議事堂入りするように言われていたから、十分にその余裕はある
筈だった。
「南みゆきさんがそれを望まれていないからです。二緒議員との面談の
後でないと会えないと明言されております」
「どうしてだよ!?」
「私にはわかりません。ただし、感情固定装置の審議には欠席されない
よう伝言を預かっておりますが」
「くそ!こっちだって欠席するだなんて言ってないじゃないか!」
「タカシ。落ち着いて下さい。二緒議員との面談の後でないと会えない
とおっしゃられているなら、それなりの理由があるのではないのですか?」
「どんな理由だよ?」
「二緒議員に会ってからでないと、言えない理由でしょう?」
「そのまんまじゃねぇか・・・?くそ!」
「タカシ。南みゆきさんが今望んでおられるのは、あなたが会いに来て
くれる事ではなく、抽選議員としての義務を果たされる事です」
「どうして・・・?」
「私がそれを申し上げるわけにはいきません。とにかくまずは法案その
ものの内容をじっくりとご覧になられては?そこにみゆきさんから託さ
れた何かが見つかるかも知れませんから」
「あいつの為に法案に賛成しろってか?」
「私も、みゆきさんも、そんな事は申し上げておりません。ただ、みゆ
きさんが切に望んでも立てない立場にあなたはいるのです、タカシ」
「・・・わかったよ」

 観念してソファに腰を下したおれの前に、感情固定装置取締法案が表示され、おれは呆然とした。
なんとなく頭から終わりまで画面をスクロールさせただけで、その行
数に舌を巻いた。
「だいきゅうじゅうはちじょう・・・!?」
 一番後ろの条文は確かに第九十八条だったが、第××条の2とか、条
文や項の数は数百行にも及んでいた。
「これを、審議しろってか・・・?」
「ですから事前の説明会が用意されていて、そこで質疑応答の時間が設
けられているのです」
「いや、そりゃそうだろうけどさ。説明に1時間。質疑応答に2時間だっ
け?とてもじゃないけど足りそうにないけどね」
「法案の条文全てに精通される必要はありません」
「そんなことAIが言いきっていいのかよ?」
「立法する議員としては、その条文が何を意味するのか、全てを把握し
ていないといけないのでしょう。法案に関わって発生する人的・法的・
金銭的・社会的・政治的コストその他諸々。しかしタカシ、あなたは抽
選議員です」
「YesかNoかを判断できる材料が見つけられればいいってか?」
「その通りです」
 なんなんだかなぁ・・・。信頼されてるんだかどうなんだか微妙な感
触だった。まるで打たれてもいいからって言われて勝負がかかったリリー
フのマウンドに登るような感覚だった。
 夏休みの宿題を二学期の始業式2時間前に始めた子供の心境で法案を
眺め始めたおれに、光子さんは口添えしてくれた。
「法案とは、線を引くものです」
「線?」
「はい。して良いことと悪いこと、もう少しはっきり言うと、罰せられ
ることと罰せられないことの線引きです」
「ふうん。それがこの法案とどう関係あるの?」
「感情固定装置を扱えるのは誰か、施術や治験を受けられるのは誰か、
逆に言えばそうできないのは誰かを明らかにし、その線を踏み越えてし
まった人々や組織に対する罰則を明文化したもの。それがこの法案です」
 まぁ、確かに言ってしまえばAIの言葉通りだった。
 誰が、何を、得るのか。
 家でほとんど政治を語る事をしなかった行徳おじさんが法案とは何か
について語ってくれたわずかな言葉を思い出した。
 二緒さんもその会社であるNBRも、お金だけなら目的にはなりはしな
い。昨晩も言ってたけど、あるとしたらその先にあるものだ。
 じゃあ、政治に関わる議員達にしてみたらどうなんだ?NBRは日本政
府の最大のスポンサーだけど、NBRの利益の最大化を目指すなら、市販
を禁止する法案ではなく許可するものになる筈なのに。

 感情固定装置の施術を受けられる対象のリストを見つけて、その疑問
はとっかかりを得た。
「この第十一条と第二四条で感情固定装置の施術を受けられる対象が書
かれてるけどさ、裁判に関わる人とか、政治家って除外されてるのな?」
「それは私にではなく、選挙議院の説明会でご質問されるべきものでしょ
う」
「わかったよ。そうする」
 んでおれは次に、みゆきに関わりがありそうな箇所を探してみた。
「この、治験って何?」
「第二条の20項にある通り、新薬の臨床試験と同じです。効能や安全
性を確かめたりする為に行うものですね」
「でもさ、第十一条の第一項と第二項に関連項目はあるけど、どういっ
た人ならなれて、逆にどんな人ならなれないってどこにも明記されてな
いよね?」
「されていませんね」
「どうして?、ってそれも説明会で聞くべきことってか」
 AIはうなずいた。
「まぁ、あえて理由ぽいものを挙げるなら、第一条のこの法案の目的か。
『感情固定装置の保険衛生上及び社会的な危害を防止しつつ、様々な精
神障害等への感情固定装置の医療的活用の可能性を研究し、もって公共
の福祉の増進を図ることを目的とする。』」

 みゆきの場合にこの目的が当てはまるかどうかは微妙だった。NBR社
が超法規的な存在であるのは確かだったが、審議中の法案を無視して強
行してしまうことも考えにくかった。

 法案を上から下までざっと眺めて、関連した法案にまで目を通してい
たら、宿舎を出る時間はあっという間に来てしまった。

 議場に着くと、中目と二緒さんが立ち話ししていた。
 おれが近づいてきたのに気がつくと、二緒さんは、中目と短い言葉を
交わして自分のブースにそそくさと入ってしまった。
「おはよう、タカシ君」
「おはよ。二緒さんから話聞いたか?」
「うん。あたしはかまわないよ」
「お前的には、この話どう思う?」
「どうって?」
「妊娠してる女の人が、ELを受けようとしてるのってさ」
「理由によるんじゃないかな、かな?」
「どんな理由なんだよ?」
「んっとね、これはあたしの勝手な想像だよ?」
「ああ」
「堕ろすつもりだったら、EL必要ないと思うんだな」
「ん、まぁ、そうなる・・・のか?」
「たぶん、ね。それに、好きな人との間に出来た子供だったら、ELなん
て必要じゃないんじゃないかな?」
「それって、イワオの子供じゃないってことか?」
「言ったでしょ。これはあたしの勝手な想像だって。ホントの事はみゆ
きさんに聞かないとね」
「話してくれるかどうかわからねぇじゃねぇか?」
「でも、当人が話したがらないことを強制はできないよね?」
 言葉に詰まった。
「タカシ君は、みゆきさんの事が心配なんだね。それは人として尊敬で
きる事なんだろうけど、でも、タカシ君、今一番気にしなきゃいけない
事は他にあるよね?」
 レイナの目は問い詰めるような厳しさは無かったけれど、はぐらかせ
るような雰囲気じゃなかった。
「言いたい事はわかってるよ。抽選議員としてのお役目に集中しろって
言うんだろ?」
「うん。むずかしいだろうけどね。とりあえず、質疑応答開始前までに、
みんなの質問を集めてるんでメールで返しておいて。重複したのを質疑
応答の冒頭で私が代表質問するから、よろしくね」
 レイナはおれの肩をぽんと叩き、他の議員の方へ行ってしまった。
 おれはAIと自分のブースに入り、仮想ディスプレイとキーボードを
表示させ、治験対象者として定義され得る人の範囲と、ELを就業上の前
提条件として施術を受ける職業の中に政治家や裁判官が含まれない理由
を書いてレイナ宛てにメール送信した。
 審議開始10分前には、議場の前方には内閣の全員が勢ぞろいして、レ
イナはそこでボードを手に黒瀬議長や首相達と打ち合わせしていた。

 やっぱり、臨場感が違った。閣僚や官僚に取り囲まれて平然と応対し
ているレイナを見ていると、自分が非常に場違いな所にいるんじゃない
かと今更ながら心配になった。他の人たちはどうなんだろうと気になっ
て見渡してみると、そわそわしてる感じの人たちが多かった。
 議事開始5分前には議場の扉が全て閉められ、3分前にはレイナも自分
のブースに戻って来た。と思ったらすぐに画面がポップアップしてレイ
ナの顔がブースの一面に現れた。
「ねぇねぇ、緊張してる?」
「お前はしてないって言うのかよ?」
「議員さんの方に回ったことは無いし、国会答弁に自分で立ったことも
無いから、緊張してないって言えば嘘になるかもね」
「かも、か」
「だいじょうぶ、なるようになるよ♪」
「なぐさめてんのかよ、それ?」
「えへへ、あ、ほら、始まるよ!」
 レイナの顔が映っていたモニター画面が閉じたと思ったら、議場内に
黒瀬議長によるアナウンスが響き渡った。
「それでは、これより第一回、選挙議院による法案説明会を開催致しま
す。まず越智首相による冒頭陳述から始まり、その後一時間の法案主旨
説明、15分間の休憩の後、2時間の質疑応答が予定されております。昼
食休憩の後、企業院からの修正案説明、質疑応答の時間がほぼ同様に予
定されております。
 では、越智首相、お願いします」

 越智首相が進み出たが、相対的に、ものすごく近かった。何せ、全体
の人数が少ないのだ。数百人ではなく、たった16人の議員しかいないの
だから、勢い議場というよりはかつての委員会のスペースに近い。過去
の参議院の議場を再利用しているので、前面の内閣達が並んでいる所と
登壇する場所はそのまま。その前の書記係がいたスペースには、18人く
らいがかけられる円形の机が用意されており、壇に向かい合う正面に黒
瀬議長だけが腰かけている。
 形式的には選挙議院側の人間なのだが、抽選議院に属する者として、
元々参議院議長が着席していた側ではなく、抽選議員側に席を占める
ように、これも散々な議論の末に決まったのだった。
 その壇と丸テーブルを囲うように半円形に各抽選議員のブースが配置
されている。議場正面から向かって一番右手側に中目から、性別と年
齢順に、おれ、二緒さん、奈良橋さんという順に、一番左手端が八神さ
んのブースだった。

 越智首相は、手ぶらで登壇すると軽く会釈して話し始めた。
「議場では初めまして、越智です。みなさんとほぼ同じく、私にも政治
的背景はありません。この感情固定装置取締法案は、抽選議員の皆さん
の着任を待ちわびておりました。憲法裁判所が、この法案の成立は、廃
止されることが決定されている参議院ではなく、その後継者たる抽選議
院により承認されなければならないと判断したからです。選挙議院とし
ても異議を唱えませんでした。
 なぜか?
 この感情固定装置というものが、人の生き様だけでなく、社会の将来
的な行方まで左右してしまうものだからです。民主主義の在り様さえ変
えていってしまうでしょう。選挙議院では、付属した複数の第三者委員
会での審議時間を含めれば延べ500時間以上の討議を繰り返して参りま
した。
 犯罪の無い社会。不幸な殺人や暴力が根絶された世界。政治家や役人
による公的権力の汚職が絶無な体制。別れの不安にさいなまれずに済む
恋人や夫婦。うつ病などの精神病や自殺さえ将来的には無くせるかも
知れない。理想的な国際協調が達成できれば、今後一切の戦争行為すら
無くせるでしょう。
 しかし同じ装置が真逆の目的に用いられる危険性も、私達は忘れては
いけない。民主主義の根幹を成す個人の尊厳さえ、各自の判断する能力
さえ、この装置は奪ってしまえる。
 選挙議院での結論は、市販は禁止するが、しかし感情固定装置の可能
性は全て封印しないというものになりました。現在は公職に関係ある者
の一部や、犯罪者の再犯防止の為にのみ用いられているものを、社会全
体の厚生と福祉の増進の為に用いられる可能性を残しました。
 政治家と呼ばれる国や地方の立法府の議員や、裁判に関わる裁判官な
どがELの適用除外とされている理由は質疑応答でも尋ねられるでしょう
から、私個人の意見もここで述べておきます。
 政治は宗教ではありません。政治を定義する立法に禁忌が存在しては
ならないのです。あらゆる法案は、新しく条文を付け加えられたり廃止
される可能性を認められなければならない。しかし違法行為というもの
は、既存の憲法なり法律に判断を委ねます。
 衆議院が廃止されて選挙議院に生まれ変わっても、この考えは受け継
がれています。私は何も、議員はその時々に存在する法を踏みにじって
も構わないと申し上げているわけではない。全ての議員は、ELの施術を
免除される代わりに、定期と不定期の年2回以上のMR検査を義務付けら
れています。決して社会からの手綱をかけられていないわけではない。
 しかし立法府の人間は、既存の法律を超えた判断を求められることが
往々にして存在することもまた真実なのです。単純な事実とさえ言える。
 裁判に関わる全ての法曹関係者にも免除されている理由を私が申し上
げるのも僭越ですが、彼らの脳内に一切の外部的干渉が埋め込まれてい
るべきではない、というのが最大の理由です。感情固定装置の功績は否
定し得ない。安全性も然りです。しかしながら、その制御の中身は外見
からはわからないのです。人類が直面した史上最大のブラックボックス
と言っていい。
 この法案は、そのブラックボックスの社会への悪影響を可能な限り防
ぎながら、人類社会に対して与え得る恩恵の可能性を温存するものになっ
たと私は考えております。皆さんとの討議は私共からの説明が終わった
後ですが、楽しみにしておりますよ。私も皆さんと全く同じ一般市民に
過ぎなかったのですから。
 これで私の冒頭陳述を終わります」

 気がついたら、拍手していた。ぐるっと見渡してみると、抽選議員は
みんなそうだった。ただ一人、レイナだけが冷めた目で首相を見降ろし
ていた。

「なぁ、中目のところに内線かけられる?さっきあいつがかけてきた
みたいに」
「可能ですが、相手に着信拒否される場合もありますし、音声だけ許可
される場合もあります。議場内での通話内容は全て記録され、特にプラ
イベートなものと判断されない限り、後日の議事録開示の際に同時に公
開の対象になりますがよろしいですか?」
「議員本人が非公開扱いにしたくても?」
「申請はできますが、認証するのは憲法裁判所です。通話記録はいずれ
にせよ残されます。いかが致しますか?」
「ま、いいや。呼び出してみて」
 着信は拒否されず、レイナの横顔が瞬時に映しだされた。
「なに?もう説明は始まってるよ?」
 ぱっと壇上を見ると、厚生労働省の大臣が、ELの開発歴のおさらいを
始めていた。
「いや、ちょっとだけ気になっただけだよ」
「何が?」
「お前、さっき拍手してなかったろ?首相の演説が終わった後」
「そんな決まりはないでしょ?」
「まぁ、そうなんだろうけどさ」
 レイナは、とっくに頭の中に焼き付けられてる筈の壇上からの説明に
関心を払いながら答えた。
「タカシ君。あたしは、何?」
「何って、レイナはレイナだろ?」
「うふ、うれしいこと言ってくれるけど、私の仕事は?身分は?」
「官僚で、パブリック・チルドレンで、今は抽選議員」
「もう答えはわかるでしょ?」
「逆に不自然じゃないのか?そんなことまでELで制御するなんて」
「制御なんてしてないよ。あたしだって拍手する時はするけど、しない
時はしない。それは他のパブリック・チルドレンも官僚達も同じ。それが
強制された時に何が起きるかは、言わなくても分かるよね?」
「あ、ああ。何か気にしすぎてる感じもするけどな」
 レイナはやっとこちらを振り向いて付け加えた。
「ELが無い世の中だって、絶対王権や独裁政権なんてのは現在に至るま
でいくらでも成立してたでしょ?ましてやELなんて物騒なものが出てき
ちゃったら、それがお役人の頭の中に仕込まれてる事を人々が望んで実
現されちゃってたら、何が自由意思の結果であって何がそうでないのか、
わからなくなっちゃっても仕方無いんじゃないかな?望んだ人達はちっ
ともわかってないみたいだけど、ね」
 返す言葉が見つからなかった。
「じゃ、切るよ?また後でね」
 通信を切って正面に向き直る直前のあいつの目は真剣だった。
 おれは頭をかいて正面の壇上を見つめた。厚生労働大臣は、選挙議院
や有識者委員会の審議内容、世界保健機構(WHO)の見解、先進国諸国の
ELへの対応などを要約して述べていた。
 正直話の半分も理解できなかったけれど、必死に頭を回転させながら
耳を傾けた後、おれはつぶやいた。
「当たり前だけどさ」
「はい?何でしょうか、ご主人様?」
「ここ、高校じゃないし、ホームルームでも無いんだよな。みんな、マ
ジになる場所なんだよな」
「法案の中には、社会的にほとんど影響が出ないものもあります。しか
しこの法案はその対極にあるものなのでしょう」
 ブースの中の仮想ディスプレイには、厚生労働大臣が触れるにつれて
議事録だの文献だのが次から次へと表示されてきた。おれはそれらを最
大速で斜め読みしながら、大臣の説明も聞き洩らさず、わからないこと
があればその場でAIに質問し、その都度適切な答えが返ってきたり、専
門的すぎる事は新たな文献を後から当たることを提案されたりした。脳
生理学とか交感神経系がどうとか薬品やナノ・バイオ・ロボットの機能
の違いとか、そういった辺りだ。
 あんまりにもひっきり無しにいろんな資料の画面が展開してくるもん
だからついていけなくなり、おれは弱音を吐いた。
「これ、全部で何百ページていうか、まともに目を通したらどんくらい
かかるの?」
「国内で今までに行われた議論や記事、アンケート調査、医学的な論文
などに絞っても、軽く数百時間はかかるでしょう。国外のものも含める
のであれば、WHOの公式文書にでも絞らない限り、全てに目を通すとい
うことは現実的ではありません。一般の方々が目を通されても理解でき
ないものも多いのですから、目を通すことそのものを目的に設定するの
は適切な行為とも言えません」
「厳しいんだか優しいんだか良くわからないコメントをありがとう」
「全てを知ることは誰にもできないのです。将来の事になればなおさら
です。それでも政治に関わる方達は判断を下すのです」

 考えてみれば当たり前のことだった。誰だってこうなって欲しいとい
う期待や、こうなって欲しくはないという不安の両方を抱いてる。個人
の事であれば立ち止まって思考を停止することも判断を下すことを拒否
することも許されるかも知れない。けれど議員は・・・。
「それが、仕事だから、か」
「はい。それがご主人様のお役目です」
「やれやれ、だよ」
 説明の一時間はあっという間に過ぎ去り、何人目かに登壇した法務大
臣が締めた。
「以上を持ちまして、だいぶ駆け足ではありましたが、選挙議院からの
法案主旨説明を終わります。ただこの場をお借りして、一言申し上げて
おきます。
 皆様の中には、国際的な議論がこうだからとか、世論調査の結果がこ
うだから、我々もそれらに沿うべきだとお考えになられている方々がい
らっしゃるかも知れません。確かに国際的に順守されるべき人権や条約
などは存在します。人類が犯した過ちから学んだ教訓の数々も忘れるべ
きではないでしょう。
 しかし主権という国家にとっての自由意思は尊重されるべきであると、
国際的に改めて確認されております。例えば隣国が民主的なプロセスで
ELを全国民に施術し、犯罪の無い社会を目指したとしましょう。それを
隣の国が、ELという人為的な装置から人間を解放するのだと施術を受け
た人々とその統治機構を制圧し、結局は彼らの国と人々から自由を奪っ
たとしたら、それは価値判断の強制、主権の侵害に他ならないのです。
 宗教的国家に対しては、ELの販売は制限されています。それらの国の
中には、自ら輸入を禁止している所もあれば、その逆に国際社会に対し
て販売を要請している所もあります。信教を神から与えられた至上の判
断、いわゆる使命として装置に委ねるべきでないという意見と、手段が
どうであれ世界を特定の神の教えで染めるべきだという意見とが、対立
しているのです。
 あらゆる争いを封じるかも知れない装置が、新たな争いの火種を生み
出してしまっているのが現実です。その勢いは人類史上の宗教戦争に比
肩するものになってます。
 法は、この現実社会においては、最終的に人の手によってのみ定めら
れます。装置によってではありません。その最終ラインが守られている
限り、ELを社会から根絶しないと人が人以外のものになっていってしま
うのではないかという不安は無用だと思われます。ですからこの法案は
ELを取り締まる法案ではあっても根絶するための法案とはなっておりま
せん。
 以上です。ご静聴ありがとうございました」

 閣僚達も、抽選議員の議員達も拍手していた。
 黒瀬議長は、法務大臣の着席を待って起立して言った。

「それでは、15分の休憩を挟んだ後、選挙議院代表者達との間の質疑応
答を行います。一時解散としますが、各抽選議員は議事堂施設内から外
に出ないように気をつけて下さい。以上」

 各ブースの前の透明な扉が自動的に開き、おれは思いきり背中を伸ば
した。だいぶ、背中がこっていたのだ・・・。

 休憩時間の後の代表質問で取り上げられたのは、次の五点だった。
・政治家(立法府の議員)へ感情固定装置の施術を義務付けない理由
・治験の定義と応用範囲を定めておかない理由
・非営利目的(知能障害や精神病疾患患者の家族等による施術等)の違
法施術が発覚した場合、強制解除するのか?その費用は誰が負担するの
か?
・海外で日本では違法とされている施術を受けて帰国した場合(例えば
夫婦間の感情ロック)、強制解除するのか?臓器移植等と違うとするな
らその根拠は?
・国内政府とWHO(国際保健機構)の判断が食い違った場合、どちらが
優先して国内で適用されるのか?

 立法府の議員に対して感情固定装置の施術が義務付けられない点に
関しては、首相が同じ説明を繰り返した。

 次に、おれが最も関心のあった治験の定義と適用範囲については、や
はり第一条の『感情固定装置の保険衛生上及び社会的な危害を防止しつ
つ、様々な精神障害等への感情固定装置の医療的活用の可能性を研究し、
もって公共の福祉の増進を図ることを目的とする。』という記述が持ち
だされ、範囲を予め限定する事によって感情固定装置で医療的に救わ
れ得る人々の希望の芽を最初から摘み取るべきではないという答弁が
あった。

 三番目と四番目については、体や精神については当人の物であるべき
と憲法上定義されたとしても、感情固定装置はどんな影響が特定個人と
その周囲にもたらされ得るか測りかねるのが、単純な臓器移植の場合と
は明確に異なる点として挙げられていた。例えば夫婦間の感情固定の施
術の筈が、テロリストの片棒を担がされる羽目にならないとは限らない。
夫婦間の感情固定もかけられていたとしても更に注文していない機能ま
で追加されているかも知れないが、施術を受ける当人にはその制御に関
して全く関知できず受ける事を拒否もできない。最も、これは国内に限
定しても起こり得ることだが、国内でさえ厳密に管理するのに苦労して
いるのだ。国内政府が責任を負えるのは国内での施術のみに限定される
というのも、当たり前と言えば当たり前だった。しかし海外で感情固定
装置の施術を受けた人によってテロが国内で起これば、国内政府が批判
の矢面に立たされるのもまた目に見えていたのだ。

 そして五番目に関しては、最大限国際的な協調を取りつつも、国内主
権の判断が優先されるという答弁が繰り返された。この特殊な技術に関
しては、NBR社が関連特許を全て押さえていて製品開発に必要な技術は
公開されておらず、他の一般薬品の特許の独占年月とは別扱いになって
いるのも、先の一部の宗教的国家を苛立たせている理由でもあった。



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